この宿は今、宿泊施設という役割だけでなく、「地域と人をつなぐ場所」として、移住者にも、地元の人にも開かれた場所を目指している。
地元出身者と移住者の二人が、なぜともに民宿を営むことになったのか。 そしてなぜ「地域と人をつなぐ場所」を目指しているのか。
広島から車で約1時間半の距離にある、島根県浜田市にある国府海水浴場。ここは、子どもたちも泳ぎやすい遠浅の海水浴場として、夏には多くの海水浴客で賑わう。
近くには、「幸せのバブルリング」で有名なシロイルカがいる「島根県立しまね海洋館アクアス」や、美しい夕日の写真スポットとしても知られる「国指定天然記念物 石見畳ヶ浦」がある。
そんな国府海水浴場すぐそばに、2025年春にリニューアルオープンし、話題となっている民宿がある。地元出身の漁師と、浜田の海に魅せられた移住者が、前オーナーから引き継いだ「民宿しまや」だ。
この宿は今、宿泊施設という役割だけでなく、「地域と人をつなぐ場所」として、移住者にも、地元の人にも開かれた場所を目指している。
地元出身者と移住者の二人が、なぜともに民宿を営むことになったのか。 そしてなぜ「地域と人をつなぐ場所」を目指しているのか。
民宿しまやを経営するのは、地元・浜田市出身で漁師の田畑卓郎(たばた たくろう)さんと、長野県出身で学生時代を浜田市で過ごした浜田市地域おこし協力隊の由井辰(ゆい のぶる)さん。二人の出会いは、由井さんが学生時代に所属していたライフセービングクラブだった。
由井さん 卓郎さんとの出会いは、僕が学生時代に立ち上げたサーフィンサークルが、「浜田ライフセービングクラブ」の手伝いをさせてもらったことでした。僕は、大学卒業後は東京で就職しましたが、浜田の海や人が好きで、毎年夏には遊びに帰っていました。そうして何度も訪れるうちに、「やっぱりどうしてもここで暮らしたい」という気持ちが強くなっていったんです。
民宿しまやを経営する、田畑卓郎さん(写真左)と由井辰さん(写真右)
由井さん ある時、「移住を考えているんですよね」と卓郎さんに話したら、「みんな楽しみにしてるから絶対来い」って言ってくれたんです。その言葉がすごくうれしくて、その日のうちにSNSで「移住します」と宣言したほどでした。
でも実際には、移住したい気持ちはあっても、なかなかいい仕事が見つからなくて。そんな時、卓郎さんが「地域おこし協力隊っていう制度があるらしいぞ」と教えてくれたんです。
想いだけでは暮らしていけないという現実。その壁を乗り越えるきっかけをくれたのが、現在一緒に宿を運営している田畑さんだった。
田畑さん 僕の周りって、結構自由に生きてる人たちが多いんです。だから由井も、そういう生き方に魅力を感じてくれているんじゃないかなと思ってはいたけど、実際には地方で自由に暮らすことは、そう簡単なことじゃない。海で遊ぶことはできても、一人で生活していくには難しさもある。
でも今回のように、地域おこし協力隊という立場があったことで、仕事の面ではすごく移住しやすかったんじゃないかなと思います。だって、もし仕事が自分の理想とかけ離れていたら、たとえ浜田で暮らせたとしても、それはそれで不満があったかもしれないですし。
仕事が見つかり、ようやく叶った浜田市への移住。東京での暮らしと比べて、特に大きな変化を感じたのは「時間の使い方」だと由井さんは話す。
港が見える和室だけでなく、シングルまたはツインの洋室、さらに一棟貸しプランも用意されている。
由井さん 東京で働いていた時は、朝早く家を出て、夜遅く帰るという生活でした。でも今は、早く仕事が終わった日はサーフィンに行くなど、趣味の時間が増えました。むしろ東京にいた時は、「この時間に何してたんだっけ?」と思うぐらい、好きなことができていて、すごく充実しています。
そんな新しい暮らしが始まって間もなく、前オーナーから民宿の事業継承の話を持ちかけられた。資金の問題もあり、不安もあった由井さんの背中を押してくれたのが、田畑さんだった。
地域住民協力のもと通年で体験できる畳ヶ浦散策ツアーでは、1600万年前の海底が地上で観察できる。
田畑さん 由井の後に、僕も声をかけられたんだけど、ある日、運転中に近所の道路ですれ違ったときに、前オーナーが突然車の窓を開けて、「わし、宿をやめるから、君やらんかね?」って言ってきたんです。なかなか面白いおじさんでしょ?(笑)
実際に話を聞いてみると僕も興味が出てきたんですが、やっぱり購入資金がネックで、一度は断ったんです。でもちょうどその頃に、国の補助金が採択されたので、急いで由井と相談し、二人で引き継ぐことにしました。
夕暮れ時の石見畳ヶ浦で撮影した写真(写真提供:浜田市観光協会)
現在「民宿しまや」は、前オーナー時代からのお客様に加え、アクアスなどを目的とする家族連れや県外からの利用者も少しずつ増えている。また日中にはカフェ営業も始め、地域の人々がふらっと立ち寄れるような場所としても開かれつつある。
一見すると順調そうに見える民宿経営だが、地方で安定的に稼ぎ続ける難しさもあるのだという。
由井さん 冬は海水浴のオフシーズンなので、冬の収入源として「久保田味噌麹店」で味噌づくりを学ばせてもらっています。卓郎さんは漁師の仕事もあるので、僕は民宿と味噌づくりを軸に、協力隊卒業後も年間を通じて自立できるよう、修行中です。
地元鮮魚店が作る夕食は、浜田で獲れた新鮮なお刺身が必ずついてくる。(二食付きプランに限る)
朝食付きプランで宿泊した場合、朝食の味噌汁には、由井さんが作った味噌が使われている。
地域に根ざしながら、それぞれの方法で暮らしをつくる田畑さんと由井さん。 二人に「民宿しまやが目指す未来」について聞いてみると、共通の思いがあった。
由井さん 僕は浜田の海と人が好きで移住したので、ここに泊まった人が「また来たい」「いつか住んでみたい」と思ってくれたらうれしいですね。僕は移住後に、卓郎さんや地域の方のおかげで、人とのつながりも自然と広がり、今では人生で初めてサッカーも始めました(笑)そんな浜田の良さを、この場所を通して少しでも感じてもらえたらと思っています。
田畑さんも同じく、宿泊者が地域の暮らしに触れられるような場をつくりたいという。
田畑さん この宿の魅力は、やっぱりこのロケーションだと思うんです。海がすぐそばにあって、漁師の暮らしも垣間見える。だから、ただ泊まるだけじゃなくて、この町の暮らしを感じてもらえるような宿にしていきたいんです。ホテルとは違って、地域の人と触れ合える空間にしたいんですよ。カフェ営業を始めたのも、このあたりにはおもしろい地元の業者さんも多いので、観光客と地元の人が自然に話せる場になればいいなと思って始めたので。
二人を取材して真っ先に思い浮かんだのは、「どこに行くかよりも、誰と行くか」という言葉だった。この言葉のように、旅や人生の満足度には「人との出会い」が大切な要素なのだろう。
そして何より印象的だったのは、「観光客と地域の人が交流できる場所にしたい」と語りつつも、「でも、誰とも話したくない人は、部屋で静かに過ごしてもらってもいいしね」と笑っていた田畑さんの言葉だった。相手の気持ちに寄り添いながら、必要なときにはそっと手を差し伸べてくれる。そんなオーナーの人柄が、この宿のあたたかさそのものなのだ。
「その土地に魅力を感じて移住した人」と「そこで生まれ育った人」の視点が共存しているこの場所なら、移住への不安や葛藤を理解しながら、地元の人との間をやさしくつないでくれるのかもしれない。
海辺の民宿で、暮らすように旅をしてみる。
そんな旅と暮らしのあいだにある“交差点”に立ったとき、人はこれまでにない生き方を想像できるのかもしれない。